黒船来航に始まり新撰組の史実を交えて辿る江戸幕末時代の歴史年表
幕末年表は幕末時代全体の出来事を記述した年表です。
新撰組が主体の年表は「新撰組幕末歴史年表」に掲載しています。
■新撰組歴史年表録■
年号(西暦) | 月 日 | 幕末新撰組歴史年表項目 |
---|---|---|
嘉永六年 (1853年) | 04.- - | アメリカ東インド艦隊ペリー提督、軍艦四隻を率いて琉球に来航 |
嘉永六年 | 05.- - | ペリー提督、軍艦二隻を率いて小笠原に来航し、貯炭所用地購入 |
嘉永六年 | 06.03 | アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督、 旗艦サスケハナ号2450トン他軍艦三隻を率いて浦賀に来航【黒船来航】 |
嘉永六年 | 06.04 | 松代藩軍議役 佐久間象山、浦賀にて黒船を実見。 |
嘉永六年 | 06.05 | 吉田松陰、浦賀にて黒船を実見。 |
嘉永六年 | 06.09 | 浦賀奉行 井戸石見守弘道と戸田伊豆守氏栄、 久里浜にてペリー提督と会見しアメリカ大統領フィルモアの国書を受領。 |
嘉永六年 | 06.12 | ペリー艦隊、浦賀沖より琉球へ退去 |
嘉永六年 | 06.22 | 十二代将軍 徳川家慶、徳川斉昭を幕政参与に任命、六十一歳にて没する。 |
嘉永六年 | 07.01 | 老中首座 阿部正弘、アメリカ国書(和訳:林大学頭)を 諸大名・旗本に開示し、意見を求める。幕府による諮問政策の開始。 |
嘉永六年 | 07.18 | ロシア使節極東艦隊司令長官プチャーチン、長崎に来航。 ペリーと同じく開国と通商を要求する。 |
嘉永六年 | 09.- - | 幕府、大船建造を解禁し、オランダに軍艦(咸臨丸)及び鉄砲を発注。 |
嘉永六年 | 10.23 | 徳川家定、征夷大将軍に補任される。 |
年号(西暦) | 月 日 | 幕末新撰組歴史年表項目 |
---|---|---|
嘉永六年 | 12.05 | ロシア使節極東艦隊司令長官プチャーチン、長崎に再来航。 |
嘉永七年 (1854年) | 01.16 | アメリカ東インド艦隊ペリー提督、軍艦七隻を率いて神奈川沖に再来航。 |
嘉永七年 | 03.03 | 徳川幕府、ペリーとの数回の交渉を経て日米和親条約を締結調印。 下田・函館を開港。 |
嘉永七年 | 03.28 | 吉田松陰、金子重輔と共に下田沖米艦密航を企てるが乗船を拒否される。 【下田踏海事件】 |
嘉永七年 | 03.- - | 吉田松陰、国禁を犯したことにより下田奉行所に自首、江戸伝馬町の獄に入牢。 |
嘉永七年 | 04.23 | 佐久間象山、吉田松陰の下田踏海事件に連座し捕縛。松代にて蟄居。 |
嘉永七年 | 07.11 | 幕府、島津斉彬の提案により日本国総船印を「白地日の丸」【日章旗 】に制定。 「日の丸」国旗制定。 |
嘉永七年 | 07.15 | イギリス東インドシナ艦隊司令長官スターリング、長崎に来航。 |
嘉永七年 | 08.23 | 徳川幕府、日英和親条約を締結調印。長崎・函館を開港。 |
嘉永七年 | 09.15 | ロシア使節極東艦隊司令長官プチャーチン、下田に来航。 |
嘉永七年 | 09.18 | 吉田松陰、伝馬町にて在所蟄居・萩への送還の判決が下される。 唐丸籠で護送され吉田松陰は野山獄、金子重輔は岩倉獄に入牢。 |
嘉永七年 | 11.04 | 【諸国大地震】発生。プチャーチン率いるフリゲート艦ディアナ号、 下田港碇泊中に津波襲来により大破。 ロシア、日本領海内での被害により日本側の負担で修理を主張。 大地震により駿河・相模・伊豆等各地に甚大な被害。 |
|
||
安政元年(11月27日改元) | ||
安政元年 | 12.- - | 薩摩藩、桜島瀬戸村造船所にて日本初の西洋型軍艦「昇平丸」を竣工。 |
安政元年 | 12.21 | 徳川幕府、日露和親条約を締結調印。長崎・函館・下田を開港。 日露の国境を択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島間に制定。 |
安政二年 (1855年) | 01.23 | 薩摩藩、昇平丸を鹿児島湾内にて試運転。 日本国総船印「日の丸」国旗を掲げ回航する。 |
安政二年 | 06.09 | オランダ、幕府に蒸気船スンビン号(観光丸)贈る。 |
安政二年 | 06.29 | 幕府、諸大名・旗本に洋式銃陣訓練を命令。 |
安政二年 | 07.29 | 幕臣・諸藩士四十五名(勝麟太郎のちの勝海舟ら)を選抜し、 航海術・砲術・機関学等を取得させるべく長崎海軍伝習所設置。 |
安政二年 | 10.02 | 【安政大地震】江戸に大地震発生。 水戸藩儒学者であり尊皇攘夷派の藤田東湖、江戸藩邸にて圧死。 |
安政二年 | 10.- - | 阿部正弘、老中首座を溜之間詰大名である堀田正睦に譲る。 |
安政二年 | 12.- - | 北辰一刀流剣術創始者 千葉周作、六十三歳にて没する。 |
安政二年 | 12.23 | 徳川幕府、日蘭和親条約を締結調印。 |
安政三年 (1856年) | 02.11 | 幕府、洋学所を設立し「蕃書調所」と改称。 |
安政三年 | 04.20 | 沖田宗次郎(惣次郎)十五歳、 天然理心流試衛館道場主 近藤周助の共をして調布下仙川に出稽古に赴く。 |
安政三年 | 04.25 | 幕府、築地に武道振興を目的とした「講武所」を開場。 講武所剣術師範役に男谷精一郎信友を任命。 |
安政三年 | 07.21 | アメリカ駐日総領事タウンゼント・ハリス、軍艦サン・ジャシント号にて 下田に来航、上陸。 |
安政三年 | 08.05 | ハリス、下田柿崎の玉泉寺に星条旗を掲げ、アメリカ領事館とする。 |
安政三年 | 08.- - | 土佐藩士 武市半平太、 岡田以蔵らと共に鏡新明智流 四代目宗家 桃井春蔵直正「士学館」に入門。 |
安政三年 | 09.- - | 吉田松陰、長州藩より松下村塾の再興の許可を得る。 |
安政三年 | 10.17 | 老中首座 堀田正睦、外国事務取扱・海防月番専任となる。 |
安政三年 | 10.20 | 二宮尊徳、七十歳にて没する。 |
安政三年 | 11.- - | 吉田松陰、松下村塾開校。 |
|
||
安政四年 (1857年) | 01.18 | 幕府、蕃書調所開校。 |
安政四年 | 05.26 | 下田奉行 井上清直、ハリスと外国人居住権・貨幣交換・領事裁判権等に関する 九箇条の日米約定【下田協約】締結。 |
安政四年 | 06.- - | 阿部正弘、三十九歳にて没する。 |
安政四年 | 08.04 | プチャーチン、長崎に再来航。 |
安政四年 | 08.06 | 下田奉行 井上清直、幕府よりの江戸出府許可をハリスに通達。 |
安政四年 | 10.07 | アメリカ駐日総領事タウンゼント・ハリス、江戸出府のため下田を出立。 |
安政四年 | 10.15 | ハリス、前日十四日に江戸到着後、九段下「蕃書調所」を宿舎とする。 |
安政四年 | 10.21 | アメリカ駐日総領事タウンゼント・ハリス、 オランダ人通弁官ヘンリー・ヒュースケンを従え登城、十三代将軍 徳川家定に謁見。 ハリス、アメリカ大統領ピアースよりの親書を老中 堀田正睦に呈する。 |
安政四年 | 10.26 | ハリス、老中 堀田正睦に「日米修好通商条約」締結を提案。 |
安政四年 | 12.11 | 日米条約交渉全権委員として下田奉行 井上清直・目付 岩瀬忠震、 ハリスと条約交渉開始。 |
安政四年 | 12.13 | 幕府、「日米通商条約」について朝廷へ報告。 |
水戸浪士攘夷派とされる三人の暴漢が捕縛される事件が起きます。 |
||
安政五年 (1858年) | 01.08 | 老中首座 堀田正睦、「日米通商条約締結」の勅許奏請のため上洛。 |
安政五年 | 02.09 | 堀田正睦、参内。 |
安政五年 | 03.14 | 関白九条尚忠の上奏により、堀田正睦に「外交措置幕府委任」の勅答が手渡される。 |
安政五年 | 03.20 | 天皇、御三家以外の諸大名の意見をきき再審議し、 改めて勅許を願い出るようにと堀田正睦に「日米通商条約調印拒否」の勅諚を下す。 |
【将軍継嗣問題】 |
||
|
||
安政五年 | 04.23 | 徳川家定、溜間詰大名である彦根藩主 井伊直弼を大老職に任命。 |
安政五年 | 05.- - | 伊東玄朴ら八十二名の蘭方医、神田お玉ヶ池に種痘所を設立。 半年後、類焼により和泉橋に再建。 |
安政五年 | 06.19 | 大老 井伊直弼、ハリスに迫られ、勅許を得ずに幕府の権限で条約調印の断行を決断。 幕府、開国に踏み切る。 下田奉行 井上清直、目付 岩瀬忠震、アメリカ駐日総領事ハリスと軍艦ポーハタン号にて 「日米修好通商条約」及び「貿易章程」調印。 |
安政五年 | 06.23 | 堀田正睦、老中職罷免。八月に蟄居命令が下る。 |
安政五年 | 06.25 | 諸大名総登城。大老 井伊直弼、紀州藩主 徳川慶福を将軍継嗣と発表。 |
安政五年 | 07.06 | 徳川幕府十三代将軍 徳川家定、脚気にて三十五歳で没する。 |
安政五年 | 07.08 | 幕府、外国奉行設置。 |
【安政五カ国条約締結】 |
||
安政五年 | 07.16 | 島津斉彬、コレラにて五十歳で没する。 |
【幕末流行病〜疫病コレラ】日本には存在しなかったコレラ菌が異国より持ち込まれ、 |
||
安政五年 | 08.08 | 梅田雲浜ら一橋擁立の尊皇攘夷派の働きにより、 朝廷から「孝明天皇、幕府の違勅調印への憂慮」の勅諚が水戸藩に下る 【戊午の密勅降下】 |
安政五年 | 08.10 | 水戸藩に下った同文の勅諚が幕府にも下る。 |
安政五年 | 08.- - | 天然理心流 近藤周助藤原邦武、嶋崎勇(近藤勇)、沖田宗次郎(沖田総司)、 井上源三郎ら門人と日野八坂神社に額を奉納。 |
安政五年 | 09.07 | 【安政の大獄】発動。 尊皇攘夷派志士である梅田雲浜、京都にて捕縛。 |
安政五年 | 10.- - | 越前藩士 橋本左内、江戸にて捕縛。 |
安政五年 | 10.24 | 老中 間部詮勝、朝廷に通商条約調印の説明のため上洛。 |
安政五年 | 10.25 | 徳川家茂、征夷大将軍に補任される。 |
年号(西暦) | 月 日 | 幕末新撰組歴史年表項目 |
---|---|---|
安政五年 | 11.15 | 西郷隆盛、清水寺成就院 月照と薩摩湾に入水。西郷隆盛、蘇生。 僧 月照、四十六歳にて没する。 |
安政五年 | 12.05 | 長州藩、吉田松陰を間部詮勝暗殺を企てた罪状により投獄。 |
安政六年 (1859年) | 01.26 | 幕府、講武所を神田小川町へ移転。 |
安政六年 | 03.09 | 土方歳三、天然理心流に正式に入門。 嘉永四年(1851年)、天然理心流試衛館に仮入門。 |
安政六年 | 05.25 | 吉田松陰、幕命により江戸に護送。 |
安政六年 | 05.26 | ザフォード・オールコック、イギリス駐日総領事に着任。 |
安政六年 | 05.28 | 幕府、神奈川・長崎・函館開港。 アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・オランダとの自由貿易許可。 |
安政六年 | 06.20 | 幕府、開港場での舶来武器購入を許可。 |
【安政の大獄】八月二十七日、大老 井伊直弼は政敵である一橋派への報復として前水戸藩主 徳川斉昭を国許永蟄居、 |
||
安政六年 | 09.14 | 梅田雲浜、四十五歳にて獄死。 |
安政六年 | 10.07 | 橋本左内、二十六歳にて処刑。 |
安政六年 | 10.11 | 幕府、土佐藩主 山内豊信(容堂)に謹慎を命じる。 |
安政六年 | 10.27 | 吉田松陰、三十歳にて処刑。 |
安政六年 | 11.- - | 幕府、「向後御国総印は白地日の丸之旗艫綱へ引揚」通達。 |
安政六年 | 12.20 | 米艦ポーハタン号、横浜入港。 |
安政七年 (1860年) | 01.13 | 遣米使節護衛艦「咸臨丸」、品川を出港。 |
安政七年 | 01.19 | 「咸臨丸」(艦種)木造三本マスト・バーク型スクリュー蒸気船、浦賀を出港。 咸臨丸乗組員〜木村摂津守喜毅・軍艦奉行、勝麟太郎(勝海舟)・咸臨丸艦長、 中浜万次郎(ジョン万次郎)・通弁主任、福沢諭吉他。 |
安政七年 | 01.22 | 「日米修好通商条約」批准書交換遣米使節(正使)外国奉行 新見豊前守正興、 (副使)函館奉行 村垣淡路守範正、(目付)小栗上野介忠順ら米艦ポーハタン号に乗船、 横浜を出港し、アメリカへ向かう。 |
安政七年 | 02.25 | 咸臨丸、サンフランシスコに入港。 |
【桜田門外の変】安政七年(1860年)三月三日 |
||
|
||
万延元年 (1860年) | 03.19 | 幕府、生糸・呉服・水油・蝋・雑穀を生産地から神奈川への直送を禁じ、 江戸問屋経由とする貿易統制令を公布。【五品江戸廻送令】 |
万延元年 | 03.29 | 嶋崎勇(近藤勇)、清水家(御三卿)家臣・松井八十五郎の長女ツネを妻に娶る。 |
万延元年 | - -.- - | 山南敬介、天然理心流試衛館に入門。(山南敬介は試衛館の食客でなく、 近藤勇との試合を機に試衛館の門人となったとされています) |
万延元年 | 05.- - | 幕府、老中 安藤信睦(信正)・久世広周らが中心となり幕権回復を目的とする公武合体策 「皇女 和宮の降嫁」を奏上。 |
万延元年 | 06.17 | 幕府、諸藩士の軍艦操練所入学を許可。 |
万延元年 | 08.- - | 朝廷、幕府に皇女和宮降嫁を内達。 |
万延元年 | 11.01 | 幕府、皇女和宮降嫁を発表。 |
万延元年 | 12.05 | 米国公使館通訳ヘンリー・ヒュースケン、薩摩藩士ら攘夷派志士により殺害される。 |
文久元年(02月19日改元) | ||
文久元年 (1861年) | 04.- - | 江戸にて疱瘡が流行。 |
文久元年 | 05.28 | 水戸浪士ら尊皇攘夷志士による高輪東禅寺での英国公使オールコック襲撃事件。 【第一次東禅寺事件】 |
文久元年 | 08.- - | 近藤勇、二十八歳にて天然理心流四代目宗家を襲名。 |
文久元年 | 10.20 | 皇女和宮、十四代将軍 徳川家茂に降嫁すため江戸に向け出立(東下)。 |
文久元年 | 11.15 | 皇女和宮、江戸城到着。 |
文久元年 | 12.23 | 幕府、開市開港延期交渉(東禅寺襲撃事件に対する英国への謝罪の目的も有り)のため、 外国奉行 竹内保徳らを遣欧使節として出航させる。 |
文久二年 (1862年) | 01.15 | 老中 安藤信正、坂下門外にて水戸浪士らに襲撃され負傷。【坂下門外の変】 |
文久二年 | 02.11 | 十四代将軍 徳川家茂、皇女和宮との婚儀を江戸城にて挙行。 |
文久二年 | 04.11 | 安藤信正、老中職を罷免され蟄居となる。 |
文久二年 | 04.23 | 島津久光の命を受けた奈良原喜八郎ら九人の刺客が、 討幕挙兵計画を画策していた有馬新七ら薩摩藩士を襲撃。【寺田屋騒動】 ■生麦事件と寺田屋騒動■ |
文久二年 | 05.09 | 遣欧使節 竹内保徳、「ロンドン覚書(関税率改定)」調印。 |
幕末歴史年表、新撰組歴史年表は随時追加更新