河上彦斎〜幕末四大人斬り
佐久間象山暗殺

尊王攘夷の志を以て、我流の居合術、抜刀剣を放ち、幾人もの佐幕派要人、
そして佐久間象山をも斬殺し「人斬り彦斎」と畏怖された剣客、河上彦斎

 河上彦斎は、土佐の岡田以蔵、薩摩の中村半次郎、田中新兵衛らとともに幕末四大人斬りと恐れられた剣客です。
1834年、肥後の小森貞助の次男として生まれますが、幼くして河上源兵衛の養子となり肥後、細川藩の御掃除坊主(小姓)として仕えます。
文武に秀でており、神道、皇国学を修め、宮部鼎蔵について山鹿流兵法を学んだ博学者でもありました。
上京した彦斎は肥後藩士として長州と連携し尊皇攘夷のため奔走します。
そして知性派河上彦斎の本当の恐ろしさは、少年のような眉目秀麗の姿からは想像もできぬ我流に習得した居合抜刀術でありました。
彼の抜刀する時の姿勢は、右膝を立て前にし左足は真っ直ぐに後ろに大きく伸ばし上体を低くした体勢から放たれる片手一撃の必殺剣。
勝海舟ですら「恐ろしいのは河上彦斎」と廻に言っていたそうです。彦斎が「斬る」と言った標的は決して彼から逃げることは出来なかったと言われています。

そして元治元年(1864年)七月十一日、三十歳となっていた河上彦斎の最後の惨殺剣が京の都を震撼させるのです。
高杉晋作ら多くの志士たちを育てた吉田松陰が師とも仰いだ松代藩士・佐久間象山は、その日の夕刻、京都三条木屋町を従者・馬丁各二名を従えて馬に乗り帰路についておりました。
まず二人の刺客が象山の馬を斬り、馬上のまま逃げようとする象山の前に彦斎が現れるのです。
佐久間象山は河上彦斎「暗殺剣」の最後の犠牲者となります。
「人を斬る時は、木偶を斬るようなものだ」と言い、感情を持たずに標的となる人間を斬ってきた彦斎が象山を斬ったことについて後にこう言ったそうです。
「はじめて人間を斬った気がした」と。
佐久間象山暗殺を最後に河上彦斎は暗殺者としての役を終えます。