近藤勇

近藤勇、幕末動乱の京都で幕末最強の剣客集団「新撰組」局長として生きた
新撰組局長近藤勇の生涯を年表を交え辿る

近藤勇人物伝 一

 天保五年(1834年)、武蔵国多摩郡上石原村にて豪農宮川久次郎の三男として生まれる。
幼名は勝太武芸が盛んだった多摩地方という土地柄もあり、豪農としての財もあった父久次郎は息子勝太に武士の教育を施す。剣術にはとくに熱心で敷地内に剣術道場をつくるほどであった。
そしてその道場に出稽古として教えに来ていたのが天然理心流三代目宗家近藤周助であった。周助は勝太少年の剣術の才能を見抜き十六歳になった彼を養子にする。
万延元年(1860年)清水家家臣松井八十五郎の長女つねを妻とする。
翌年文久元年(1861年)八月二十七日、府中六所神社にて執り行われた天然理心流四代目襲名披露の野試合にて四代目宗家となる。

近藤には、小島鹿之助、佐藤彦五郎という文武の盟友として、そして近藤に出資の援助をしていた名主として財力のある人物たちがついておりました。
近藤の人徳がそのような文武にもたけた名主たちを魅了していたのかもしれません。近藤はことあるごとに彼らに文をしたためたとも言われております。
彼の故郷である多摩には彼を親身になって支えてくれたこうした人々がいたのです。
そんな彼が将軍上洛の警護のための浪士隊に土方歳三、沖田総司ら試衛館一門を連れ参加したのが、文久三年(1863年)のことでした。
しかしながら清河八郎の浪士隊東帰命令に意義を唱え、京に留まり新撰組をつくることとなります。彼の思いは朝廷と幕府がうまく手を結び政を行うという考えでした。

その上での攘夷・・・これこそ彼が望んだ理想だったのです。だからこそ幕府を潰しての尊皇攘夷を掲げた長州、薩摩と戦うこととなるのです。
そしてその思いは、土方、沖田にも伝わっていたに違いありません。近藤勇を局長とする新撰組という組織は、いわゆる剣客集団です。
絶対的なことは、けっして相手を逃がさないということにつきます。だから新撰組は巡回に「死番」と言われる相手が潜伏しているところにまず最初に突入する者を日替わりで決めていました。
天然理心流草攻剣の攻撃方法です。これならば二番手よりの者は、死番の反応により次の打つ手を考えることができます。この戦法からも決して相手を逃がさないといった気迫が感じられます。
稽古も恐ろしいほどのものだったと伝えられております。刃引きした真剣を使っていたとも言われ新撰組においては稽古ですら命がけのものだったのかもしれません。
そんな集団を束ねる近藤から見れば武士という身分にだけ胡座をかき、志士たちに怯え、すでに武士道すら忘れた幕臣たちが不甲斐なく感じとれたに違いありません。
彼はそうして新撰組を最強剣客集団として大きくしていくのです。自らの手に愛刀、長曽祢虎徹(ながそねこてつ)を携えて・・・これより先、彼がどのように新撰組を束ねていくのか・・・

近藤勇 年表一

近藤勇 年表一

近藤勇 年表二

近藤勇 年表二

 新撰組では「局長」となった近藤勇も浪士組に入隊した頃は只の一隊員でした。
しかし、宿番などの地味な仕事にまわっていた近藤勇の行動に眼を光らせていたのが浪士取締並出役であり、会津藩重役手代木勝任の実弟の佐々木只三郎でした。清河八郎を斬ったその人です。
彼は途中の宿場で起きた事件、芹沢の宿の手配を忘れたことにより、芹沢が道のど真ん中で大篝火(かがりび)をするという暴挙にでたことに対して冷静にその場を収めた近藤の判断能力、そして清河の策に反発し、京に残留を決めた強い意志を持つ近藤勇という人間に共感し、佐々木は近藤と会津の仲立ちをすることとなります。
そのおかげもあり、京都残留浪士組は晴れて会津藩御預りとなるのです。
京都残留一派でもあった殿内派をまずは粛清した近藤、芹沢は、壬生浪士組の隊長となります。この時、もう一人芹沢派から新見錦が隊長に選ばれます。

芹沢派と試衛館・近藤派の張りつめた関係が始まるのです。
近藤勇という人物は新撰組の代表として反尊皇攘夷と思われがちですが、先にも述べましたが、彼はあくまでも朝廷と幕府が手を結びそして攘夷(外敵と戦う)という信念をもっていました。
長州などが掲げた尊皇攘夷は、すでに外敵を幕府と見なしていたともいえます。つまり攘夷の意味合いが双方で変わってきていたといえます。
そして文久三年(1863年)、四月二十一日、壬生浪士組を引き連れた近藤勇は、海岸警備視察のため下阪した将軍徳川家茂の警護に加わるという華々しい初舞台を踏むこととなるのです。
その時の彼らの出で立ちは、まさに剣客集団としてふさわしい威風堂々としたものだったといわれてます。まさに近藤勇の将軍警護のために京に上った目的が叶った瞬間だったのです。
そしてこの時の功績が認められ壬生浪士組はこの年の九月十八日、御所の南門を警備するという命を受け、そして会津より「新撰組」という名を授かるのです。

近藤勇 年表三

近藤勇 年表三

近藤勇人物伝と共に年表も随時追記していきます