斎藤一

 天保十五年、弘化元年(1844年)に播州明石に生を受ける。父親は足軽として明石藩に仕えた山口祐助。足軽身分とは士分としては最下位層とされておりました。斎藤一はその次男として育てられます。溝口派一刀流剣術、聖徳太子流、無外流の遣い手でありながらも十九歳の時、酒の席で旗本身分の者を斬り殺してしまったと言われています。酒が入ると歯止めが利かなくなる性格だったのか、若しくは相手が旗本であったとされておりますので「身分云々」の柵によるものか・・・。
斎藤一は浪士隊に加わる以前より近藤勇のもと天然理心流試衛館道場に食客として出入りしていたとされていますが、彼が新撰組に正式に入隊したのは浪士隊残留組としてではなく京都での第一期隊士応募にて佐伯又三郎と同時期に入隊したとされています。

斎藤一は入隊直ぐに沖田総司ら試衛館メンバーと同じく副長助勤となっています。そのことは、同期である佐伯又三郎がそうではなかったということからも近藤勇が斎藤一を見込んでいたということでしょう。斎藤は「刀の目利き」にも優れていたとされ近藤勇の佩刀「長曽祢虎徹」との逸話も伝えられています。一刀流の遣い手としてその腕を買われた斎藤一は、沖田総司と同じく撃剣師範として隊士たちを鍛える任も与えられるのです。
間者であったとされた御倉伊勢武は斎藤が手を下したとも言われております。 剣術の腕を存分に発揮できた新撰組隊内で斎藤は高く評価され、第二次隊士編成では新撰組三番隊長に任ぜられます。
そして彼の活躍は池田屋事変へと続きます・・・

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