057|新撰組活劇「いつか何処かで〜沖田総司物語」|小説「泥濘」

バシャッ
バシャッ  バッシャッツ

「あっ」女がぬかるんだ土に足を取られ、蹌踉ける。
男が女の二の腕をグッと強く持ち上げる。

「しっかりしろっ、糸里っつ」
男はか細い肩を抱き寄せ、女を急かせるように励ます。

「平間はん、あんおひとらなんどすの?
なんでうちらの寝やに・・・何処までいかはるの?なんでこっちに?
こんな暗い道、うち怖い・・・大通りに出て、お番所にいきまひょ、
お役人に助けてもらいまひょ? なっ」

平間重助は、何も分からず、ただ怯え、思い立ったことを次々に口にしている糸里の言葉に、何一つ返答してやろうとしなかった。 いや、できなかったのである。

・・・番所だと?役人だと?
そんな腰抜けどもが、歯の立つ相手などではないっ・・・
連中は事を決行したのだ・・・
以前から薄々は気付いていた筈なのに、もっと早くに身を隠すべきであった。

「くそっつ」ギリギリと歯を噛み締め、平間重助の唇より血が流れた。

鬼の形相と化したかと見紛うほどの男の恐怖と苛立は、女を一層怯えさせた。

「いやっ、もういややっつ
はなしておくれやすっ、うちはあんさんとは関係おへんっ
はなしてっつ」

女が男を突き放し、濡れた地面にしゃがみこみ泣き叫ぶ。

「糸里っつ」平間重助は、この女、糸里に惚れ込んでいた。

・・・俺は、お前に惚れているんだ・・・だからこそ、こうして足手まといとなることを覚悟の上で、お前を連れ逃げているんだ・・・なのにっ
こんな処でもたもたしていては、追っ手に追いつかれる・・・

平間重助は、道に伏せ、泣く糸里に未練を残しながら、命への執着にじりじりと女の側から歩を下げる。
糸里に向けられていた顔は、前方に続く逃げ道へと向き直された。
平間重助が走り始めた。
その姿に、男が自分を見限ったことに、見捨てたことに気付いた女が、罵るように叫んだ。

「平間はんっつ」

男の耳には女の声はすでに届かなかった。

・・うっ・・・糸里は、泥に塗れた自分の体をみて、そして男に捨てられた惨めさから嗚咽した。

  そして、泣き続けた・・・
やがて、よたよたと蹌踉けながら立ち上がろうとした時、突然、その肩を押し下げられた。

「立つな、そのまましゃがんで顔を伏せていろ」

「えっ」糸里が振り返ろうとした時、バサッと何かが頭より被せられた。

「ひっつ」恐怖のあまり再びしゃがみ込む。

「いいか、両手で顔を覆い、そして百数えていろ。
数え終わったら、来た道を帰れ・・・さすれば、お前は助かる。
だが、男を追えば・・・斬る。」

  男の声が暗闇に響いた。

突然、背後に現れたこの男は誰なのか・・・
なぜ、数を数えねばならないのか・・・
なぜ、あれほど愛しんでくれた平間が・・・自分を捨てたのか・・・
女は、必死に考えようとした・・・が、眼を塞ぐ暗闇が、唯一の助かる道を指し示す。

・・・かぞえようっ、百数えなければ・・・
・・・こんな処で死にたくなどない・・・
「ひ・・・ひっ・・・」糸里は、震えのため声がでなかった。
数えたいのに、数えなければ殺されるのにっ
恐怖と焦りが声を詰まらせる。

男の顔が糸里の耳元に近づく気配がした。
・・・殺されるっつ・・・鼓動が一層激しくなったその時、

「ひぃ・・・ふぅ・・み・・よぉ・・・いつ・・・」
復唱を促すかのように男が数え始める。
しかし、その声は、さきほどまでの有無をいわせぬ声色ではなかった。
まるで、幼子に聞かせてやるために、わらべ唄をうたっているかのような優しい声であった。

そのなだめるような声に、釣られるように糸里の声が連なる
「ひい・・・・・ふぅ・・・・み・・・」

そして男の気配が・・・消えた。