西郷隆盛〜西郷吉之助

西郷隆盛、動乱の幕末を生き抜き、大政奉還の立役者でありながら、
新政府に戦いを挑んだ「西郷どん」こと西郷吉之助の軌跡。

西郷隆盛 歴史人物伝

 西郷隆盛は、文政十年(1827年)十二月七日、鹿児島城下の下鍛冶町にて薩摩藩士(御小姓与)西郷吉兵衛隆盛の長男として誕生。幼名は「吉之助」。 弘化二年(1845年)、西郷隆盛は十八歳で「郡方書役助」の役に就きます。 嘉永二年(1849年)に薩摩藩で御家騒動「お由羅騒動(高崎崩れ)」が発覚します。 藩主である島津斉興と愛妾お由良の方の子、後の島津久光を世子である島津斉彬を廃し、次期藩主としようとします。しかし、そのことに反対し斉彬を時期藩主とするために高崎五郎右衛門ら斉彬派らの謀議、お由羅派の重臣暗殺計画が発覚、藩主島津斉興は斉彬派の処刑を命じます。この「お由羅騒動(高崎崩れ)で斉彬派であり切腹した赤山靱負は、西郷隆盛の上役であったとのことです。 島津斉彬を時期藩主にしようとした一派は失脚しましたが、幕府老中首座であった阿部正弘の力をかりて島津斉彬は、二十八代薩摩藩主となります。

 嘉永五年(1852年)、二十五歳となった西郷隆盛は、すがと結婚します。 そして二年後の安政元年(1854年)、島津斉彬は西郷隆盛を自分の側近として御庭方に抜擢します。隆盛にとって斉彬は主君であり、師である唯一無二の存在となるのです。 西郷隆盛は、斉彬の手足となり藩政に奔走します。 そして島津斉彬は、幕府老中首座 阿部正弘と共に将軍継嗣問題では、一橋慶喜を次期将軍にとする一橋派として徳川十三代将軍家定の正室に自分の養女である篤姫を輿入れさせます。 しかし、将軍継嗣は南紀派の紀州の慶福となります。
安政五年(1858年)、井伊直弼が大老職に就任します。 そして一橋派の一掃を開始します。 「安政の大獄」の始まりです。
西郷隆盛と共に一橋慶喜擁立に奔走していた福井藩士 橋本左内らも捕らえられ処刑されます。

老中 阿部正弘と共に開国、富国強兵を目指した島津斉彬でしたが、阿部正弘が老中職を退き、大老井伊直弼が権力を握り、そして政敵への容赦ない弾圧に対して兵を率いて上洛する決意をします。 しかし、その斉彬がコレラにより急死します。 そして、島津久光の子である忠義が二十九代薩摩藩主となり、実父である久光が藩の実権を握るのです。 絶対的な存在であった島津斉彬を失った西郷隆盛は、悲嘆にくれ、そして尊攘派であった僧 月照を匿っていたことにより保守派であった島津久光の怒りに触れ、身も心も追い詰めれれていくのです。 もはやこれまで・・・と悟った西郷隆盛は、

西郷隆盛 辞世の句

「ふたつなき 道にこの身を捨小舟 波たたばとて 風吹かばとて」
という辞世の句を残し錦江湾にて月照と共に入水します。

しかし、奇跡的に西郷隆盛だけ蘇生するのです。 そして名を「菊池源吾」変え、奄美大島で潜伏生活をします。

西郷が潜伏する奄美大島から遠く離れた江戸では、 大老 井伊直弼の暗殺計画が進められるのです。「安政の大獄」による水戸藩への厳しい弾圧により水戸藩士たちの井伊直弼への激しい恨みが積み重なっていくのです。 脱藩という形をとり浪士となった関鉄之介ら水戸浪士が中心となり、安政七年(1860年)三月三日、大老 井伊直弼を襲撃、「桜田門外の変」となるのです。
「桜田門外の変」により徳川幕府の権威が揺らぎます。 尊皇志士たちによる倒幕活動が激しさを増していくのです。 薩摩藩の中でも尊王攘夷の気運が高まり、保守派であった島津久光は尊王派を警戒し、寺田屋に集まっていた尊皇派の薩摩藩士らを粛清するよう命じます。 この「寺田屋騒動」は、一度は薩摩に戻ることが出来た西郷隆盛にも災いとなり、徳之島へ配流となるのです。 しかし、薩摩藩内で力をもってきた急進派である大久保利通の説得ににより島津久光の赦しを得た西郷隆盛は、大久保利通らと共に藩政に携わることとなります。

 京都では、徳川幕府に反発する長州藩が三条実美ら公家と手を結び「攘夷決行」を進めようとしていました。そして文久三年(1863年)八月十八日、幕府は会津藩と薩摩藩に長州討伐を命じます。「八月十八日の政変」です。 翌年の元治元年(1864年)七月十九日、京を追放されていた長州藩が軍を率いて御所に進軍しようとするのです。この時、薩摩藩の軍を率いていたのが西郷隆盛だったのです。 「禁門の変」となるこの戦で西郷は、会津藩と協力し長州軍を破ります。 禁門の変の後、幕府の命じた「第一次長州征伐」にも西郷隆盛は加わります。 禁門の変での長州軍による御所への発砲により「朝敵」となった長州に三十六藩からなる討伐軍を幕府は編成し、その征長総督に元尾張藩主である徳川慶勝、そして総督参謀に任命されたのが西郷隆盛だったのです。 しかし、長州藩内では「過激攘夷派」が力を失うと共に戦意も消失していたこともあり、禁門の変への責任者として三家老に切腹をさせることで討伐軍への降伏の意志を示します。 そして、西郷隆盛は「長州藩に戦意なし」として総督である徳川慶勝を説得します。 この「第一次長州征伐」では、長州と戦になることはなりませんでした。

 しかし、ますます体力を失っていく徳川幕府に対する各藩の従順な姿勢に変化が生じてきます。そして西郷隆盛の中にも徳川幕府への懸念が広がっていきます。絶対的な権力を保持していた徳川幕府の衰退を感じ始めるのです。 そんな中で、再び長州藩内で桂小五郎、高杉晋作ら攘夷派が勢力を盛り返します。 攘夷派が実権を握った長州藩に幕府は二度目の長州征伐軍を派遣することとします。 慶応元年(1865年)五月、「第二次長州征伐」が発令されます。 しかし、すでに西郷隆盛の中には「日本を救うには攘夷」しかないと決意していたのかもしれません。坂本龍馬の仲介により長州藩の桂小五郎(木戸孝充)と慶応二年(1866年)一月に京都の薩摩藩邸内で密会、そして「薩長同盟」という倒幕への密約を結ぶのです。 そして薩摩、長州両藩によって徳川幕府は追い詰められてゆくのです。

 わたくしごとではございまするが、
このギムレットは、佐幕派であり時勢に逆らおうとも
最後まで侍道を貫いた「新撰組」派でございまする。
徳川泰平の世が生み出した文化は素晴らしいと思っておりまする。
外国の脅威が襲ってくる幕末・・・
致しかた無いこととわかっておりまするが・・・

徳川幕府を倒し、薩摩長州が徳川にとってかわり権力をもちまするが、
西郷隆盛もまた新政府との軋轢により追い込まれていくのです。
明治十年(1877年)、西南戦争が始まり、田原坂にて敗退、
同年九月二十四日、鹿児島城山岩崎谷にて自決します。

「西郷どん」こと西郷隆盛もまた最後まで戦った「サムライ」でございました。

【西郷隆盛 愛刀】

西郷隆盛の愛刀として伝えられているのは、
●来国光(らいくにみつ)
●志津三郎兼氏(しずさぶろうかねうじ)
●手掻包永(てがいかねなが)
幕末の志士たちが「千子村正」を手に入れようとしていたのは、有名な話ですが、西郷隆盛もまた差し添えとして「村正」を所持していたとのことです。

【徳川に仇なす妖刀 村正】

村正が妖刀と伝えられる所以は、 徳川家康公まで遡ります。家康の嫡男であった信康には織田信長の娘である五徳姫が嫁いておりましたが、その五徳姫が夫である信康が武田勝頼と内通していると実家の父親である織田信長に知らせたのです。 そして信長は家康に信康を処断するよう命じます。泣く泣く切腹させた信康を介錯した刀が「村正」であり、そして奇しくも家康の祖父、父もまた「村正」で斬られていたのです。徳川家康は、「村正」を「徳川に仇なす妖刀」として家臣にも所持することを禁じました。

【勤王倒幕志士と村正】

徳川家康すら恐れた「妖刀 村正」、倒幕志士たちの間では、徳川を倒すには「徳川幕府に仇なす妖刀村正」という言い伝えに惹かれ、手に入れようとしたのでしょう。西郷隆盛もまたそれに倣ったのか、もしくは「千子村正」という名刀にサムライとして純粋に惹かれたのかは定かではございません。しかし、勤王倒幕志士たちが佩刀していた「千子村正」は、ほとんどが紛い物であったとのことでございます。戦国の世が終わり、徳川泰平の時代には刀は「飾り物」となっておりましたが、動乱の幕末には再び刀がその力を振るう時がきたのでございまする。