新撰組新見錦切腹事件

天保七年(1836年)生まれという説が有力です。芹沢鴨と共に浪士組に参加し、八月十八日の政変で「新撰組」の名を授けられる前までは、芹沢、近藤についで局長に就いてました。
芹沢の片腕といえる人物です。政変の前後で局長から副長に降格となり、経緯は定かではありませんが、すでに新撰組内部において、芹沢への包囲網を狭めていたようです。
度重なる芹沢の暴挙、そしてついには大和屋大砲事件まで起こし、「壬生浪士組」結成当初より牽制しあっていた芹沢派を排除する時が来ました。もともと「壬生浪士組」の資金調達は芹沢一派が主にやっていたといわれてます。そのやり方は、荒っぽかったようで恐喝まがいのこともしていたといわれています。 しかし当初の壬生浪士組の財政はそのおかげでなんとか賄っていたのは事実です。

文久三年(1863年)九月、新見錦が祇園の貸し座敷「山緒」で遊興中に、近藤勇を筆頭として土方歳三、沖田総司以下隊士十数名を連れて乱入し、新見に切腹を迫ったと言われています。新見錦は芹沢と同じく神道無念流免許皆伝の腕前、万全を期してのことでした。調達した資金を私的に流用したとの罪状を突きつけたようですが、これも定かではなく、唯一確かなことはよくこの時、「局中法度」をもちだして・・・と言われているのは「局中法度」なる確かなものはなく、それとされた隊規が定められたのもこれよりずっと後のことですので、「局中法度」は関係ないということです。
はたして新見錦は切腹したのですが、彼が本当に自ら切ったのか・・・それとも・・・ それは定かではありません。