新撰組〜遊里

幕末京都の花街島原、祇園に生きた女たちと新撰組隊士

花街-遊里

江戸の遊郭〜花街として有名なのが「新吉原」ならば、京都の花街として名が聞こえたのは「上七軒」「祇園」「島原」です。中でも特に島原が新撰組隊士たちのご贔屓だったと言われています。
島原は新撰組屯所に近かったということも隊務に追われた隊士たちには便利だったのかもしれません。体力も精力も旺盛な若者が多かったのですから無理もありません。
「新撰組の給金」でお話しました通り、文久三年暮れ頃には、しっかりとした手当が支給されるようになってからは、局長近藤勇を筆頭に足しげく遊里に通ったそうです。
対して尊王攘夷派の志士たちは、「祇園」「木屋町」によく通ったとされています。花街で出くわすのはお互い避けたのかもしれません。

花街のしきたりとして、置屋で抱えている芸妓、遊女らを揚屋に呼んで遊ぶという決まりがありました。
揚屋は一般的に高級な座敷とされ、多くは茶屋と呼ばれた揚屋よりも格が下がる座敷が一般的だったようです。
置屋として有名なの芹沢鴨暗殺事件の当夜、平間重助が新撰組屯所に連れて来ていた遊女糸里を抱えていた「輪違屋」(現存)の名が浮かびます。
新撰組局長である近藤勇も「輪違屋」を利用していたということを物語るかのように近藤直筆の書が描かれた屏風が残っています。
揚屋として名高いのが新撰組幹部たちが会合としょうした響宴をよく催し、芹沢鴨が大暴れした時に出来たともされる刀痕が残る「角屋」(現存)です。