永倉新八

 天保十年(1839年)九月十二日、江戸下谷三味線掘、福山藩主松前伊豆守邸の長屋にて生まれる。父の名は永倉勘次、江戸詰百五十石取りの家柄でした。幼名は栄治。父勘次は武家の男子として幼い息子を剣術の道へと進ませます。栄治は十五歳の時、神道無念流に入門し、切紙(最初に授かる免許)、そして十八歳で本目録を授かり、その年に元服し、名を永倉新八と改めます。彼は十九歳の時、藩邸から離れ本所亀沢町、百合本昇三もとで剣術修行に励むこととなります。
二十二歳で免許皆伝となります。心形刀流(江戸四大流派に数えられ、幕末の剣豪、伊庭八郎が学んだ剣術)に入門していた頃、後に同じく新撰組隊士となる島田魁と知り合ったといわれています。

永倉は二十五歳の春、同門の市川宇八郎と連れだって武者修行の旅にでます。
各地の道場で腕を試した永倉新八、市川宇八郎は八月に江戸に戻ってきます。この頃、近藤勇のもと試衛館に出入りするようになったとされていますがもう少し以前から、安政五年(1858年)前後より近藤勇と交流があったとも言われています。永倉新八は、試衛館の食客となり近藤勇、土方歳三、沖田総司らとともに剣術修行に励むのです。
そして文久三年、幕府による浪士組入隊希望者を募る知らせを永倉新八が試衛館にもたらします。浪士組に参加し、そして新撰組での彼の活躍は他人物伝と同じく随時追記していきます。