久坂玄瑞〜光明寺党〜禁門の変

松下村塾四天王として尊皇攘夷の志を掲げ、
吉田松陰が実妹の文と結婚を望んだほど信頼した稀代の俊才「久坂玄瑞」

 久坂玄瑞(くさかげんずい)は、天保十一年(1840年)に萩城下にて誕生。
十五歳の時に長州藩医であった父 久坂良迪(よしみち)そして兄を亡くし、家督を継ぐこととなります。
尊皇攘夷の志を強くもっていた久坂玄瑞は、米国艦船に密航しようとし捕縛され蟄居していた吉田松陰が、安政三年(1856年)に開いた松下村塾の最初の門下生となり其の才覚を発揮します。
高杉晋作、吉田稔麿らと共に「松下村塾三秀」と呼ばれ、そして高杉晋作、吉田稔麿に入江九一を加え「松下村塾四天王」としても其の名を連ねます。
玄瑞は松蔭の目となり耳となるべく江戸・京都での国事に奔走し収集した情報を松蔭に伝えるのです。

吉田松陰は、久坂玄瑞を長州藩一の俊才であると称え、そして最も信頼を置き、実妹である文を嫁に差し出します。
玄瑞は松蔭が直情に走り過ぎた時には松蔭を止めることもあったと言われています。
尊皇攘夷を掲げる吉田松陰と久坂玄瑞ら門下生たちは、徳川幕府が勅許を得ぬまま日米修好通商条約締結したことへの憤りを膨れ上がらせていきます。
そして老中 間部詮勝が上洛し行った志士への弾圧に対し怒りを爆発させ、そして老中襲撃を計画するのです。
しかし其の計画は失敗に終わり、そして安政の大獄の発動とともに松陰は投獄され処刑されます。
久坂玄瑞は、吉田松陰の意志を継ぎ尊皇攘夷志士たちの先鋒となるのです。
長州藩も公武合体支持から尊皇攘夷支持へと藩論を変えます。

文久三年(1863年)朝廷への建前として攘夷決行を五月とした幕府に合わせ、長州藩は久坂玄瑞に下関にて外国船への砲撃準備を命じます。久坂玄瑞は共に砲撃に加わる同士を募ります。
そして彼は多くの同士を得るのです。この時、集まった尊皇攘夷志士たちで結成されたのが光明寺党と呼ばれることとなり、そして後の奇兵隊となるのです。
しかし同年の八月十八日の政変にて長州藩は京都を追われることとなります。 京都での力を長州藩が再び握るために久坂玄瑞は、真木和泉、来島又兵衛らと共に京都に進軍します。
「禁門の変」と呼ばれることとなるこの戦いに長州は、会津・薩摩藩の前に敗れ、久坂玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸に立て籠もり、そして切腹します。
久坂玄瑞 享年二十五。